映画きの組合員が、半分趣味として書き始めたコーナーです。
         思い込みの激しい内容ですが、読んでみて下さい。

回 数 作 品 名 制作年度 掲載号
第31回  キッズ・リターン  1996年  2003.12(No208)
第32回  木更津キャッツアイ  2002年  2004.1(No209) 
第33回  スパイダーマン  2002年   2004.2(No210)  
第34回  我輩はカモである    1933年   2004.4(No211)  
第35回  猟奇的な彼女    2001年  2004.6(No212)  
第36回  陽はまた昇る  2002年   2004.8(No214) 
第37回  冒険者たち   1967年   2004.9(No215)  
第38回  チルソクの夏  2003年   2004.11(No216) 
第39回  シュレック2  2004年  2005.1(No217) 
第40回  フェーム  1980年  2005.2(No218) 



ACT31   キッズ・リターン    1996年 オフィス北野 作品    
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 大学に入学した年、世の中は『漫才ブーム』だった。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と『ツービート』のビートたけしが毒舌を吐いていた。その後、たけしは音楽活動を始め、本を書き、役者としても圧倒的な存在感を放った。『タケちゃんマン』はやがて『たけし先生』となり、深作欣二の代打として映画監督デビューも飾った。そして北野武は『世界のキタノ』となった。
 北野作品はちょっと取っつきにくい。情報過多、演出過剰の作品が氾濫する中で、主人公の多くは寡黙である。演出も感傷的な表現を避け、被写体と距離感を持つ。それは自らが担当する編集方法にもいえる。時空をバラした映像の組み立て方は、唐突で説明不足だ。
 その理由は北野武という人が、もの凄く「シャイ」だからに違いない。そんなシャイな男が、自分を最も表現できる方法として、映画という手段を手に入れた。毒舌や文筆活動では表現しきれなかった深い思いが、映像に焼き付いている。だから、後でジワリと効いてくる。
 映画の冒頭、授業をさぼったマサル(金子賢)とシンジ(安藤政信)が「対面自転車二人乗り」をするシーンがある。ふざけ合いながらヨロヨロと走る自転車。若者の危うさ、不安、痛み、そして将来の暗示。北野武が希有な映像作家たる所以である。やがてマサルはヤクザ、シンジはボクシングの世界に足を踏み込む。そして、それぞれの世界で成功をつかみかける。が、嫉妬と誘惑が、彼らを挫折へと追い込む。
 たけしはマサルとシンジに自らの心情を託したのだろう。芸能界で成功を収めた一方で、プライバシーを犠牲にし、加えて、嫉妬と誘惑の渦がたけしを巻き込む。その結果、自己破壊へと向かい、自殺まがいのバイク事故を引き起こすことになる。
 北野映画は、たけしの人生とリンクした、プライベート・フィルムでもある。作品はその時々の心情を色濃く映し出している。そしてこの『キッズ・リターン』は、事故からの復帰作に当たる。「俺たち、もう終わっちゃたのかな」「バカヤロー、まだ始まっちゃいね〜よ」というラストシーンは、生死を彷徨った北野武の復活宣言である。
 北野武は、変化し続けたい人でもある。だから毎回、前作とは違った題材を選ぶ。最新作である『座頭市』のダンスシーンは、MGMミュージカルの楽しさを彷彿させた。その意味では従来の作風から一歩踏み出したといえる。
 人は何を見て、何を感じ、何を考えたかで変わる。当然、伝えたいことも変わるだろう。しかし、どうせ変わるなら、自分自身をより高めた姿に変わりたいものだ。
 『漫才ブーム』で一世を風靡した人たち。彼らのその後の人生もまた様々である。(つ) 

 

ACT32   木更津キャッツアイ    2002年1月〜3月 TBS系列で放映    
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 最近、某テレビ局の視聴率至上主義の姿勢が問題になった。その価値観からすれば、このドラマは全くダメダメな作品である。視聴率は、10%そこそこ。プロデューサー(注1)は大いに悩んだに違いない。しかし、人生に【コンプレックス】(注2)や【悩み】は付きモノだ。
この言葉は作品のキーワードでもある。例えば、エースの弟を持ったばかりに名前を忘れられたアニ。教頭のストーカー行為で心身症に陥った美礼先生。人は【問題】を抱えているからこそ、それを克服すべく懸命に努力する。そして、何よりも主人公のぶっさんは、余命半年の宣告を受けている。にも関わらず、彼の言動は常に前向きで、周囲の者たちに対する愛情で満ちている。これは多分生き方の問題だろう。ジタバタ騒がず【普通】に生きようと努力する。それはやがて「どうせみんな死ぬんだろ」的な生死感に到達し、【完全燃焼】を目指す。
 もう一つのキーワードは【チームワーク】。「なんで野球なの?」という美礼先生の問いに「大勢いた方が面白いからじゃないっスかね。一人で飲んでも、なんだかな〜だし」と答えるぶっさん。キャッツのメンバーが野球を愛しているのは、仲間がいる喜びを知っているからだ。浮浪者であるオジーを『木更津の守り神』と呼び、そのオジーが現れなければ、憧れの哀川翔(注3)率いる『やくざ球団』(注4)との試合さえキャンルしてしまう。この真摯な姿勢に「ダチは一生もんだ、大事にしなきゃな」と応える哀川も魅力的だ。
 思いっきりハイテンションでハイスピードの展開。「難病モノ」であるにも関わらず、元気で清々しい気分になる。加えて、ぶっさんの病気を知った父親が、モノマネで『あの鐘を鳴らすのはあなた』を歌う可笑しさと切なさ。この作品の懐は深い。
 放送終了後の評価はうなぎ登り。脚本の宮藤官九郎に対して「なんか木更津のDVD売れてるらしいよ、ムカつくよね」とプロデューサーが発言したとかしないとか・・・。しかし、その裏には、数字では測れない濃いファンに支えていることに対する、誇りと自信が感じられる。でなければ、映画化(注5)される筈がない。
 数より質が重視される時代。つまり「会員数も大切だけど、リピーターこそ重要」ということかにゃ〜。(つ)
(注1)磯山晶氏。『池袋ウエストゲートパーク』『マンハッタンラブストーリー』などでも宮藤と組む。いづれの作品も評価は高いが、視聴率とリンクしない悩みが・・・。
(注2)第7話でコンプレックスの『BE MY BABY』が使われ、映画版では更にバージョンアップして登場。そういう意図を感じるのは、読み過ぎですか・・・?
(注3)本人役で出演。ぶっさんは熱烈なファンという設定。氣志團(木更津出身)も本人役で出演するなど、ゲスト陣が豪華でそれぞれいい味出している。
(注4)第3話に出てくる劇中劇。第5話で哀川のチームと試合することになるが、そのユニホームは劇中劇そのまま。
(注5)『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』が只今ヒット中次は、ワールドシリーズだにゃ〜。



ACT33    スパイダーマン    2002年  ソニーピクチャーズ
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 アメコミ(注1)の映画化作品はどうも苦手だ。片手ほどの観客しかいない寒々とした劇場で『バットマン』を観て以来、「自分には会わないなぁ〜」という感覚が擦り込まれてしまったらしい。『ハルク』などは予告編だけでもうお腹いっぱいで、「あのパンツはどこまで伸びるの?」とか「お前はどこまで飛び跳ねて行くんじゃ〜」などと突っ込みたくなったものだ。(みんな、そう思ったよね?)実際、これらの作品は、映画会社の期待ほど日本では成功を収めてはいない。
 で、『スパイダーマン』である。公開時、監督がサム・ライミだと聞いて「なんで『死霊のはらわた』の監督が・・・」と絶句してしまい、それだけでパス!私、スプラッター映画(注2)も苦手なんです。フィルモグラフィーをみると『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』というケビン・コスナーお得意の野球ドラマもあるようだが、(未見です、スミマセン)なんせ『死霊のはらわた』の印象が強烈すぎて、「サム・ライミ=スプラッター=遠慮します」という図式が自分の中で出来上がっていたのだ。
 しかし、今更のようにビデオで観て「こうした偏見はいけないなぁ」と少々反省した。実はこの作品、日本でも興行収入75億円の大ヒットを記録している。(全米興行成績は歴代5位の超メガヒット)しかも「こんな真っ正直なメッセージ映画ってあり?」という印象の、実にまともな(いや、別にスプラッター好きな人が「まともじゃない」という意味ではなくて・・・)主張が貫かれていたのだ。
 そもそも『スパイダーマン』が世に出たのは1962年のこと。時代設定こそ現代に置き換えてあるものの、前半は懐かしい学園ドラマの雰囲気がある。主人公のピーターは眼鏡をかけたイジメられっ子だし、学園モノには定番の三角関係もある。リストラされた養父が「求人先はコンピューター関連しかない」とぼやく台詞に「現代」を表現するものの、この家族には「古き良きアメリカ」の温もりがある。
 想像以上のパワーを授かり有頂天になっていたピーターは、傲慢で無責任な行動で養父を死に追いやることになる。悔やんでも悔やみきれない自責の念。「大いなる力には、大いなる責任を伴う」という養父の言葉が深く胸に突き刺さる。彼はこの事件をきっかけに、本物の「正義のヒーロー」スパイダーマンとなる。 
 「大いなる力」とは、何も飛んだり跳ねたり、糸を出す力のことではない。第三者の人生に影響を及ぼす力、いわゆる「権力」のこと。命令で人を動かすことの出来る者は、その責任を真摯に受け止めなければならないのだが・・・。
 
う〜ん、なんか煮詰まってきた。USJに行って、気分転換でもしようか。『スパイダーマン・ザ・ライド』は凄いらしいよ!(つ)

(注1)アメリカン・コミックスの略。
(注2)英語で「血しぶき」の意味。『死霊のはらわた』はこの世界では名作とされている 

ACT34      我輩はカモである    1933年  アメリカ映画
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 先日、いかりや長介氏が亡くなって、マスコミが連日報道をくりひろげていたのは記憶に新しい。彼の生前の仕事、とくにドリフターズでやってきた仕事が、正当に評価されているかどうかは疑わしいものがあるのだが、彼もまた「笑い」に取り付かれた一流のコメディアンであったことは間違いなかろう。
 というわけで、今回ご紹介する映画は、ドリフターズの大先輩にして、映画史上最強のコメディーチーム。グルーチョ、チコ、ハーポ、ゼッポの四人からなる、マルクスブラザースの最高傑作『我輩はカモである』
 僕が彼らと出会ったのはもうもう20年も前、『祇園会館』のリヴァイバル特集である。1930年代の大昔のコメディー映画にほぼ満員の観客が大爆笑していた情景が
まるで昨日のことのように思い出される。
 架空の国「フリードニア」の宰相に選ばれたグルーチョが、独裁者となり、他の3人と、とにかくめちゃくちゃをやっているうちに、気がつけば隣国と戦争になっていた・・・。 
 彼らの作品はとにかく徹底的にナンセンスなギャグの連続である。この映画も、「独裁者と戦争を風刺している」とたまに評されるが、それは彼らの本意ではない。彼らにとって、すべての権威や常識は、破壊され、おちょくられる対象なのだ。たまたま、それが、「独裁者」に対する異様なカリカチュアになっただけだ。だって返す刀で彼らは「愛国者」にオレンジをぶつけ、「民主主義」すらもおちょくり倒しているのだから。
 ウッディー・アレンが「悩んでいる時に彼らの映画を見ると元気が出る」的な発言をしていたけれど、たしかにあまりの馬鹿馬鹿しさに悩んでいる自分がアホみたいに思えることは確かだ。ある意味彼らの映画は「癒し系」?うーん、破壊的癒し系。結構いいかもしれないね。(英)

 

ACT35     猟奇的な彼女    2001年  韓国映画
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 韓国ブームを指す《韓流》という言葉が最近目に付く。『冬のソナタ』が地上波でも放送され、書店を覗けばペ・ヨンジョンが幾つもの雑誌の表紙を飾っている。来日騒動も相まって、今やヨン様を知らない主婦はいないだろう。しかし、我が家では弟系(?)のウォンビンの方が人気。この夏に公開される『ブラザーフッド』で、日本でも大ブレイクの予感がする。
 「彼らの人気の秘密は?」と考えたとき、はたと気が付いた。近年、心ときめくスターがいなくなったことに・・・。数年前ならトム・クルーズやブラッド・ピットがその代表格。しかし、二人とも演技派指向が強いし、酷な言い方をすればかなりお歳を召してきた。ならば、コリン・ファレルやジュード・ロウはどうか?少々アクが強すぎて、日本人向きではない。『ロード・オブ・ザ・リング』のオーランド・ブルームに目を付けた女性も多いが、なんせ登場人物は多いし、画面が騒がしくてじっくりと美貌を鑑賞している暇はない。しかも女優に至ってはもっと悲惨な状況にあり・・・。
 《韓流》の最大の立役者は役者である。観客の心を掴んでこそスター。スターはSFXなどに負けてはいけないのだ。その為にはコスプレだっていとわない。学生服姿さえ、ヨン様ファンには堪らなく魅力的なのだろう。
 この作品で「猟奇的な」彼女を演じるのがチョン・ジヒョン。酒乱だが正義感が強く、曲がったことは大嫌い。「ぶっ殺す」というような物騒なセリフを吐いても、彼女には清涼感が残る。彼女も制服姿を見せてくれるが、「制服・ロングの黒髪・しなやかな肢体」は、世の男どもが好む女性の必須アイテムなのだろう。(これではヨン様ファンと一緒・・・?)
 そんな彼女に振り回される気の弱い大学生、キョヌを演じるのがチャ・テヒョン。全身にクッションを纏ったような風貌は、どんなに辛い目の遭っても悲惨さを感じない。ドリームワークスがこの作品をリメイクする(注1)そうだが、果たしてこうしたコントラストの面白さが生かされるだろうか?
 《韓流》のもう一つの要因は、観客を巻き込む強引な演出である。映画の「前半戦」は、彼女の「猟奇的な」行動に多少引いてしまうが、「後半戦」になるとキョヌ君同様、彼女の振る舞いに馴染んでいる自分に気づく。そして「延長戦」では、時間軸を往来する構成を含め、キッチリと演出の罠に掛かってしまう。
 ちなみに「猟奇」という言葉(注2)は、もともとは「奇想を楽しむ」というよい意味だったとのこと。それならばこの作品は、本来の意味に適った良質のコメディといえる。
 《韓流》恐るべしっ!(つ)     
(注1)監督は『ベッカムに恋して』のグリンダ・チャーダとのこと。ならば、多少は期待できるかな? 
(注2)作家の佐藤春男の造語。彼はその後の意味の変貌に大いに怒ったらしい。



ACT36    陽はまた昇る    2002年  東映映画
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「家電業界が羨ましい」。3年前の定期大会で、ある来賓がこんな挨拶をされた。「競争は激化しているが、新商品が次々と開発されている。私の出身である呉服業界では考えられない」というのだ。確かに毎年発表される《ヒット商品番付》には、当社が扱う商品が多数ランクインしている。そして今は《新三種の神器》が話題だ。そんな「恩恵」を授かっていることを、我々はどれだけ認識しているだろうか。
 この映画は《ミスターVHS》と称された日本ビクター副社長、故・高野鎮雄氏をモデルにしている。高野氏は昭和45年、「1年やれば首が飛ぶ」といわれた不採算部門のVTR事業部長となる。当時、47歳。明らかな左遷人事だった。そんな中、高野氏は家庭用VTRの開発を決意する。担当の技術者は3名。人員削減を迫られている中での極秘開発プロジェクトだった。世界規格であるVHSは、実はこんな境遇からから生まれたのだ。

 「モノ造り」のドラマである。この場合の「モノ」とはVHSという規格を指すのは明白だ。しかし、高野氏は商品開発を通じて、それ以外の「モノ」も創りかえた。リーダーが夢を語り、チームをまとめ、一丸となって行動するとき、「人」や「企業」や「社会」までも変わることができる。
 「VHSの時は夢中でしたね。夢中というのは大変すばらしいことです」。晩年の高野氏の言葉は、組織に埋没しがちなサラリーマンが持つ、「仕事って何だろう?」という疑問に対して、明確に答えてくれている
 こうした技術者の心意気に、我々は充分に応えているだろうか。商品をいかに「安く」消費者に提供するかは、流通業に課せられた重大な責務だ。しかし、その際、価格以外の「満足」も付加できているだろうか。粗利が「満足」という付加価値の結集であるならば、我々の存在意義を高めるためにも商品と「真摯」に向かい合い、お客様に「満足」を与えることに対して、もっともっと「夢中」にならなければならない。

 主演の西田敏行と渡辺謙の凸凹コンビが面白い。特に『ラスト・サムライ』とは別人のような渡辺の《オーラ無し演技》は、逆に感動的ですらある。ホントに上手い役者だと思う。
 欠点も多いが、見終わった後の爽快感は大きい。評価は分かれると思うが、多くの人に《見て欲しい映画》であることは確かだ。(つ)
 【高野鎮雄 語録】
「会社の中には序列やルールがあるから、権力や腕力を使えば社員は上の人の指示に従うのは当たり前だ。しかし、権力やルールで社員に指示しても、本当に人が動いてくれるわけではない。権力によってではなく感動によって人を動かすのが真の経営者ではないか」

                         【参考文献】『プロジェクトX リーダーたちの言葉』 文芸春秋  今井 彰 著



ACT37
 
   冒険者たち    1967年  フランス映画
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連日の猛暑と全国各地を襲った自然災害。深紅の大優勝旗が初めて北海道に渡り、アトランタ五輪はメダルラッシュに沸いた。そして、個人的には25年目にして高校の同窓会に初めて参加した。2004年はそんな夏だった。少々照れくさい表現だが、夏はエネルギーに満ちあふれた『青春の季節』と言える。だから夏の終わりはどこか物悲しく、センチメンタルな気分を掻きたてる。 
 飛行機で凱旋門をくぐり抜けようとするパイロット、マヌー。自動車会社を退職し、自力でレースカーの開発を目指すエンジニア、ローラン。そして、前衛芸術家の卵、レティシア。2人の男と1人の女。いわゆる青春映画の定番とも言える構図だが、3人とも『青春真っ只中』という年齢ではない。いわゆる「いい年齢をして『夢』を捨てきれない人たち」の物語。つまり、この作品は『晩夏の映画』といった趣を持つ。
 

 従来の役柄とはかけ離れた無精髭&ジーンズのアラン・ドロン、少年のような笑顔を見せるリノ・バンチェラも素敵だが、なんと言ってもジョアンナ・シムカスが演じるレティシアがこの映画の生命線である。そう、レティシア!「ロマンティックな名前だな」とマヌーが叫ぶように、映画史上、最も優雅な響きを持つヒロイン名だ。
 それぞれがそれぞれの『夢』に破れた後、3人は海中に眠るお宝探しの旅に出る。『夢追い人』だけで過ごす幸福な時間。しかし、こんな暮らしはいつまでも続かない。突然、『腹を空かせた男』が3人の関係に割り込んでくる。そう、『現実』というヤツは、自分達の意志とは無関係に、しかもある日突然襲ってくる。
 『腹を空かせた男』のおかげでお宝は発見できた。しかし、そこから悲劇が始まる。「もう貝を拾わなくても暮らせるね」というレティシアの甥の言葉に「楽しいから拾っているんだろ」と応えるローラン。たぶん彼らは『金』のためではなく、『人生を楽しむ』ために冒険を続けていたのだろう。しかし、『現実』の多くの人々は『金』こそが『夢』だと考える。このギャップが、彼らを更なる残酷な結末へと導くこととなる。
 どんなに高校時代を懐かしんでも、あの『18の夏』に戻ることできない。ならば44歳の今を賢明に生きるしかない。この年齢だって、いや、この年齢だからこそ『現実』と闘いながら、『夢』を持って生きることができる。だって、学生時代にはあんなに嫌悪感を持った『腹をすかした男』のことが、今は許せるようになったではないか。
 学生だから出来ること、独身だから出来ること、子供がいるから出来ること、『人生を楽しむ』コツとは、それぞれの時代を精一杯生きることにあるのだと思う。(つ)



ACT38    チルソクの夏    2003年  日本映画
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                      1977年7月7日(七夕を韓国語でチルソクと言う)、韓国・釜山において姉妹都市である下関市との親善陸上競技大会が開催される。そこで安大豪と遠藤郁子は出会い、一瞬で恋に落ちる。そして、来年も開催されるこの大会での再会、つまりチルソクの再会を誓い合うのだが・・・という物語。少々奥手だった郁子の「初恋」を軸に3人の親友との「友情」が描かれる。メールも携帯電話も無かった時代。唯一の通信手段だった手紙さえ、互いの国に反感を持つ両親に反対される。日韓が歴史的悲劇を引きずっていた時代。韓国は近くて遠い国だった。
 この映画は昨年5月、下関で先行公開された。地元では応援団が結成され、2度・3度と劇場に足を運ぶ者も多いという。こうした熱烈な「チルソク菌感染者」(ファンの間ではそう呼ぶらしい)の口コミにより、上映地域も山口県から九州・中国地方へと徐々に広がり、本年4月にはついに首都圏に進出。そして夏には名古屋・大阪などでも公開された。実際、私と家内も「もう1回見たい!」という衝動に駆られ、再度劇場に足を運ぶこととなった。どうやらこの映画には、応援したくなるような力が宿っているようだ。 
 ではなぜこの映画を応援したくなるのか。その第一の理由は4人の「走る」姿にある。リズミカルなかけ声が心地よく、全力で疾走する姿は美しい。彼女たちがトラックを駆け抜ける時、スクリーンは爽快感と躍動感に支配される。ただ「走る」という単純な運動が、こんなにも人の心を高揚させるものなのか。
 2点目は「未来」に対する真摯な眼差しである。その瞳は自分や親友の人生を真っすぐに見ている。安くんにいたっては、国の将来さえも見つめている。若者達はお互いの事を思いやりながらも、甘えのない自立した強さを持ち合わせている。その凛とした姿が頼もしい。
 3点目はいわゆる郷愁なのだろう。1977年に17歳ということは1960年生まれ。私は彼女たちと同い年である。この夏、私も確かにグランドで大粒の汗を流していた。加えて懐かしい歌謡曲の数々。4人で唄う『横須賀ストーリー』、4人が踊る『カルメン77』、そして主題歌の『なごり雪』。これらの歌謡曲には、一気にあの時代へとタイムスリップさせる力がある。
 しかし、決してセンチメンタルな気分に浸るだけの映画ではない。あの頃の仲間を応援することで、現在の自分が勇気づけられる。そして自問自答する。今も「ひたむき」に生きているか。仲間達を応援しているか。そして何よりも、仲間から応援される存在になっているか。
 既に17歳の娘を持つ同級生もいる。是非、親子で一緒に見て欲しい作品である。(つ)



ACT39    シュレック2    2004年  ドリームワークス作品
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『シュレック』が公開されたとき、実はあまり食指が湧かなかった。緑の怪物というキャラクターが「好きになれないなぁ」という印象だったし、CGアニメの無機質感も馴染めなかった。そして何よりもフィオナ姫が可愛くなかったから・・・。
 しばらくして子供と一緒にビデオで見た。途中「おとぎ話をこんなにちゃかしていいの?」と心配してしまったが、ラストには一本取られた。
 かつてディズニーで育った子供も大人になり、厳しい現実に直面している。『シュレック』は「やっぱりファンタジーなんて嘘っぱちだったじゃないか」と拗ねている〈かつての子供たち〉へ送る、〈逆説的ファンタジー〉の傑作だった。その1作目より格段に面白いのがこの続編。冒頭からアリエルをフィオナ姫が投げ飛ばし、『ロード・オブ・ザ・リング』や『スパイダーマン』のパロディで映画ファンを喜ばせる。舞台となる〈遠い遠い国〉はビバリーヒルズだし、結婚式はまるでアカデミー授賞式。唸ってしまったのは、クッキーマン達が『警察24時』を見ているというアイディア。この手の番組はスピード感溢れる映像がウリなのだが、そこにシュレック達の逃走が映し出される。映画はこのシーンを起点として一気にクライマックスへと突入していく。

 今回登場する新キャラクター達も魅力的だ。中でも「喋る動物キャラは俺と被るから」とドンキーに毛嫌いされる〈長靴をはいた猫〉は面白すぎる。よくよく考えるとストーリーとは関係ない、全く無駄なキャラなのだが、「瞳ウルウル攻撃」だけでその存在感は十分。もっとも猫という動物は、「可愛いこと」自体に存在意義がある訳で、生産性など誰も期待していないものだ。
 また、妖しい媚薬作りを生業にしながら、唄って、踊って、国王を陰で操る〈妖精のゴッドマザー〉も強烈だ。必ずや映画史にその名を残すに違いない。もちろん悪役としてだが。
 こうした制作者の「遊び心」に日本語版スタッフ・キャストも負けてはいない。ドンキーの山寺宏一は作品にリズム感を与え、長靴をはいた猫の竹中直人もピタリとはまっている。しかし、極めつけは、やっぱりシュレックの浜ちゃんだろう。「じゃ、その仰々しい連中は何だ?」の字幕が、「ほならこの『パッパラー・ファンファーレ・タイツマン・バンド』の態度はなやねん」となる面白さ。実は英語版も同様のセリフを言っているのだが、関西弁ならでは雰囲気がある分、浜ちゃんの勝ち(?)だと思う。このキャスティングを思いついた人。あなたのセンスに拍手を送りたい。
 英語版にはジュリー・アンドリュースも参加していて、劇場公開時には「英語版も見たいなぁ」と真剣に悩んでしまった。しかし、DVDなら両方の音声が楽しめる。これは素晴らしいことだ。そう考えるとDVDソフトとは、随分とお得な商品といえる。特典映像も満載だしね。 (つ)



ACT40    フェーム    1980年  MGM作品
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まもなく卒業と入学のシーズンを迎える。そんな季節になると思い出すのがこの作品だ。日本での公開は1980年の12月、私が大学に入学した年だ。その頃は、将来は映画関係の仕事に就きたいなどと漠然と思っていた。そして一緒に劇場に足を運んだのは中学時代の同級生。彼女は国立音大で声楽家を目指していた。
 この作品を一言で表現するならば「ごった煮」である。登場人物は人種、生活環境、専攻科目、更には入学の動機さえバラバラだ。将来のフェーム(名声)を目指す若者達のエピソードを積み重ねた構成で、核となるドラマは存在しない。彼らはニューヨークの熱気を肌に感じながら、舞台芸術専門高校(驚くべきことに公立!)の4年間で、友情、恋愛、自立、挫折などを体験し、人間的成長を遂げていく。映画は入学試験から始まり、卒業パフォーマンスと共に終了する。まるで「私たちが教えることは全て終わり。後の人生は、自分の手で切り開きなさい」と言わんばかりである。彼らは栄光を掴むのか、消えてしまうのか?それは誰もわからない。<実力だけは>生きていけない世界、ショウビズ界とはそういう所だ。 

 この作品をきっかけにスターとなったのがアイリーン・キャラだ。彼女が歌った主題歌はオスカーを受賞し、83年の『フラッシュ・ダンス』の主題歌『ホワット・ア・フィーリング』もオスカーを受賞した。しかし、この頃が頂点だったのだろう。85年に『ウーマン・プリズナー』というTVムービーに主演しているが、お世辞にもスターが出る作品とは言えなかった。(共演は9歳でオスカー女優となったテータム・オニール。これもまた悲しかった)この頃、日本公演も行っているが、張りのある伸びやかな歌声は衰え、ファンとしては残念な内容だった。それ以降、ショウビズ界から消えてしまったようなのだが・・・
 今回見直したとき、卒業パフォーマンスの場面で不覚にも涙した。彼らの中でフェームを勝ち取れるのは、何人いるのだろう?もしかしたら一人いるかどうかも怪しい。それでも彼らは高らかに歌い踊る。そのひたむきさとエネルギー。加えて、祝福と愛情に満ちた演出に涙した。
 監督でも、この新人俳優達の世話をし続けることは出来ない。ならば、彼らのパフォーマンスが最高に輝く演出をすること。これこそが、彼らに対する「はなむけ」である。劇中の教師と生徒の関係もしかり、私生活における上司と部下の関係もしかりだ。時として厳しい指導も必要だが、愛情に裏打ちされたものでなければならない。
 その後、同級生は結婚し、三人の子供を持つ専業主婦となった。もう何年も会ってない。しかし、毎年幸せそうな年賀状が届いている。(つ)

 第53回アカデミー賞(1980年)  作曲賞・歌曲賞の2部門受賞
 1980
年度キネマ旬報ベスト・テン 外国映画第10